静岡浅間神社の写真を撮りにいった帰り道。ふらりと立ち寄った古本屋。
匂うんですよね。こういう外観のこういうお店。おそらく何かあると眺めていたら、ヤッパリ!!
タイムライフ社が1971年に発刊した「写真の主題 -日本語版」を発見!!
それが上の写真。最初に現れる写真は、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「セーヌ川のはしけの船頭」1957年。
丁度40年前の本でありながら、ケース付きのハードカバー。日焼けもなく印刷も美しい。ああ、もう、足がふわっと浮いた気分。
それで、一冊100円。まぁ、興味がなければ、トイレットペーパーになっちゃうのよね。
で、これは、シリーズで何冊かあったのですが、今でも通用する内容のものを2冊、持って帰って来た訳です。
光の捉え方と何をどう撮るか?
この二つは、いつの時代も変わらないものですから。
そんなわけで、今日は、この本の序文から少し転載しちゃいます。
序文
フランスのある農家の窓からながめた不鮮明な画像が最初の写真となってから一世紀半、その間に数百万もの写真家が赤子から月面の上にいたりありとあらゆるものについて、数十億枚もの写真を撮って来た。だが、彼ら写真芸術家たちが特に関心を深めてきたのはおもにポートレート、生物、ヌード、自然、戦争、そして人間の生きる姿の6つの領域である。これらのテーマを写真にする時、写真家の才能とカメラの能力は、どのようなものを扱う場合よりも挑戦を受ける。
人々の生活をとらえる写真は、最も撮影がしにくい。技術的なことはすべて、二義的なものになってしまうからである。写真家の目の前で何かが起こるとき、それは一瞬の出来事であり、どのフィルムを使うべきだろうか、適正露出だろうか、光線はどの方向から射しこんでいるのだろうかなどと考えている余裕はない。こうしてあてがわれた状況下にあっては、写真の最も有効な道具はタイミングをおいてない。しかも、彼が人間に対して鋭敏な神経を持っているなら、それは眼前に展開する出来事を本質的に把握する上で、おおいに役立つに違いない。
これと対照的なのが、静物を撮る場合である。静物写真家は物体と物体の関係に関心を持っており、人間同士のそれには関心がない。彼は構図やスタジオの照明に頭を使い、自分が撮ろうとするものを忍耐強く長時間見つめる。たった1枚の写真を撮るにも、細部にまで注意を払い、被写体の配置が美的な感情を満たすとともに、想像のひらめきを与えるように様々な工夫をし、数時間あるいは数日間を費やすこともまれではない。(後略)
森島は、写真家ではないけれど、読むとうんうんと頷きたくなります。
人々の生活を捉えようとすると、技術的な部分が二義的になるところは、本当によくわかる。
この本の日本語版の監修は、金丸重嶺さん(故人)という偉い先生なのですが、お話ししたことはないものの自分の出た学校の関係者でもあって諭された気分になりました。
そういうもんだから、がんばりなさいな!とね(笑)
それにしても、まさか、職場の近所にあるとはなぁ。
ものすごい縁でした。