先日の15日、千葉の幕張メッセで開催された東京オートサロン2012へ行ってきました。
カスタムカー(平たく言えば合法改造車)の祭典というわけですが、近年は、オートサロンというよりもキャンギャルサロンかも(汗)
それはそれで、オジサン、鼻の下を伸ばして(汗)という展開になりそうですが、そっちはそっちの専門の方にお任せして、ガチで行ってしまったわけです。またもや(笑)
特に、スケジュールを決めていた訳でもなかったのですが、MZRacingのブースの前を通りかかると、聞こえてくる声・・・
???:100馬力(向上)の目標に対して、100馬力のアイディアだったら、絶対100馬力は出ない。絶対できる、高い目標を確実にやろうという想いがあるから、僕たちは100馬力を達成しようと思ったら、200馬力の結果を出そう。
そうしたことをやりました。
ん?脇に置いてあるマシン。
MAZDA 787B!!
そうです!1991年のルマン24時間耐久レースで、日本車、ロータリーエンジンのクルマで優勝したクルマ!!
昨年、ちょうど優勝20周年で、その787Bをレストアしてイベントを行ったのだそう。
うわ、聞かなきゃ!!とりあえず、携帯電話の録音ボタンをオン!
マツダは1970年代からルマンに参戦してきたのですが、90年にレースのレギュレーション(出走ルール)が変更されることとなり、ロータリーエンジン搭載車は出走が出来なくなってしまいます。
その最後のレースのために、チームは一丸となって、マシンの100馬力のパワーアップと低燃費化に挑んだというエピソードは、クルマ好きなら有名なエピソード。そのお話が生で聞けたという訳なのです。
#24時間耐久レースは、24時間でどれだけサーキットを周回できるかを競います。つまり、より速く、より多く走る事が出来たクルマが優勝出来る。したがって、燃費が良ければ給油のために停車する回数が減らせるので有利になる訳です。このようなレースに出走するクルマは、ほんの数年先に市販車に取り入れられる技術が織り込まれ走行するため、自動車メーカーの近い将来の技術力を競い合うという側面もあるのだそう。そして、ルマンは、たぶん今年の10月に世界選手権となってスタートして、富士山の見えるサーキットでこのようなレースが開催出来るという情報まで出てきました(!)
そんなわけで、今日の投稿は、録音当日の音声データを元に、そのまま文字起こし。
このお話は、元マツダの契約ドライバーでレーシングドライバーの寺田陽次郎さん、マツダのスポーツカー担当主査山本修弘さん、RX-7の元主査でモータージャーナリストの小早川隆治さんによる、ルマン24時間耐久レース優勝を語る内容となっています(写真左から、敬称略)。
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小早川:そして、見事に100馬力アップ燃費の大幅な改善をして、実は90年、ロータリーが出れる最後の年に挑戦をしました。ところが、最後の年である90年は2台とも惨敗をしてしまう。24時間のほぼ真ん中で、リタイアをしてしまう。電気系統のトラブルとか、色んなトラブルで、ですね。従って、本当は、これがロータリーのルマンの挑戦の最後だったはずですけれども、まぁ、ちょっと気障な言い方をすると、私はこの本当に努力に努力を重ねて行く人には、どっかで女神が見つめていてくれる、見事に女神が微笑んでくれました。
もう一年だけ、ロータリーが出ていいよ、ターボも出ていいよ、大排気量も出ていいよ。3.5リッターの自然吸気(エンジン)だけでは、(レースを行うための)参加台数が足りないことが、解ったからですね。
そうすると、91年は、ホントにもうどんなにあがいても、これが最後のロータリーが出られるチャンス。
そこで、何をやったかというとそれまでは、マツダスピード(モータースポーツを行う別会社、メーカーのワークスチーム)とマツダって言うのは、
エンジンはマツダが担当、車体は、車両関係は、マツダスピードが担当、そして、それぞれ係が分かれたカタチでやっていたんですけれども最後の一年にかけては、徹底的に手を結んで、その領域を全部外して、もちろんマツダも車両関係に手を差し伸べようということで、実は、勝つためのシナリオというシナリオを書きました。
当時、スーパーコンピューター、マツダの場合は先進していましたから、
色んなシュミレーションができて、とにかく367Lap走る、ラップタイムを、走りを、縮める、そのためには、一体、エンジンでありシャーシーであり、ブレーキであり、トランスミッションであり、何をどうさなければいけないかということで、なんと80項目、いわゆるハードウェアの改善プランを立てました。
それから、それ以外にもいろんなソフト、運営上のソフトもありますから、そういうもので、ざっと言うと200項目以上にわたる改善項目をホントにマツダスピードとマツダが手に手を取り合ってやって望んだのが91年と言うことです。
司会:そうですね。
そのころ、そのモータースポーツ主幹だった小早川さんがいたから、多分そういう話になっていたんですけれども、
そのまえには、なが〜い、長いヒストリーがありまして、エンジンは広島(マツダ)でやって貰っていたんですけれども、シャシーはこちら(マツダスピード)でやっていましたけれども、どちらかというとシャーシー側もエンジン側も、敵対というか疑問というか、そういったことを持ちながら長いことやってきて、その最後の一、二年間は、もうまったく一丸となったと、そういうストーリーがありました。
広島側では、エンジン側を主にやられてましたけれども、寺田さんは、実は、ドライバーでありながら、マツダスピードの企画部のマネージャーもしておりましたので、チーム運営やお金の管理とかね、こういった、わーわー言うんですけれども、金が出てくるアレは決まっているわけなんですよ。
そのコントロールも寺田さんがやっていたんですよね?
寺田:本当に予算の話になるとね、みんな頭薄くなったんじゃないかとおもうんですよ(笑)。
まぁ、本当にお金出さない会社ですよ。それでねぇ、四の五の言うんですよね。
でも、僕たちはレースに勝ちたいから、で、メカニックにやっぱりふんだんに良いパーツをエンジニアに良いパーツを使って、良いクルマにして貰いたい。
で、速いクルマ創ってもらいたいんだけれども、まぁ、いうこととね、お金出すことはね、全然違うんですよね(笑)
例えばね、一番分かりやすいのがね、あの787Bというのは、あの年、あのレーシングカーでカーボンブレーキを使ったの初めてのクルマなんですよ。
メルセデスもジャガーもカーボンブレーキじゃなくて、スチールブレーキ。
いま、カーボンブレーキ、当たり前じゃん。
でも、あの当時は、画期的なこと。でね。当時やっぱり高くて、一輪200万(円)。
かけ4でしょ。かけ2台でしょ。かけスペアでしょ。
まぁまぁ指折り数えて、良いお値段ですよね。
それ、欲しいから、予算入れるんだけれども、なんでやねんといわれるんですよ。
こんなにいい、スチールブレーキがあるじゃないかと。ノーチェンジでいけるのあるじゃないかと。
そっから、始まる訳です。
なぜいるんだ。
しょうがないから、それを換えることで、バネ下重量がいくら変わるから、何秒速くなる。
一周に対して何秒速くなる。その積み重ねでトータルであと何ラップ走ることができるようになる。
そういうことで、(みなさんも)予算で困ったらそういう計算をなさると意外と出るかも分かんないです(笑)
あと、タイヤウォーマーね。ブレーキ、タイヤというのはあったまんないと走れないでしょ。
冷たかったら、走れない訳ですよ。で、冷たいまんまのタイヤで出て行ったら最初の半ラップは全開で行けないわけ。
そしたら、それはもう、リードされちゃう。
だから、事前にタイヤをあっためなければいけない。
タイヤウォーマーを作る設備が必要。
そうしたら、それを管理する人間が、最低でも3人はいるわけですよ。
そういう交渉をする。
でも、贅沢はしなかった。
実際に勝つため。
クルマが速く走るために、知恵を使ったんです。
ウチのチームはやり方が質素ですよ。シンプル。
小早川:私から見ても、ホント質素でね。
マツダスピードが一生懸命そういうことをやってくださっているのがね、
マツダ側から見ていても痛いほどわかります。
で、もちろん当時のマツダも決して出せるだけのお金が出せる状態ではなかった訳ですから、ただし、非常に限られた予算、91年に勝った時の予算、具体的に何億という数値は申し上げませんけれども、F1の年間予算のほんの数%にも満たない額だと思ってください。
#F1の年間予算は、チームによって差が大きいが200億円から600億円と言われています。
そういう額でですね、あれほど素晴らしいマシンとチームを運営してくださり、しかも、ジャッキー・イクスさんという本当に素晴らしいコンサルティングチームマネージャーにも、あとでどれくらいのお礼をしたのか聞いてみたら、本当に驚くほどのささやかな、本当にその彼もまた、マツダを助けたいと思って助けてくれたというそういう方達の集まりだったと言うことでしょうね。
そういうことで、91年のルマンは緻密な計算の元に、勝ち得た勝利だったということをみなさんにお伝えしたいと思います。
「一つのものを極めようと思ったら何事も妥協は出来ない」 そんな気持ち伝わって来ました。
これぞ正しく…「愛」ですな!! 当事者も、関係者もファンも…ビシビシ伝わって来ますにゃぁ
カーボンブレーキ、バネ下重量、タイヤウォーマー その辺触れて話したら長くなりそうなんで、追々…
Posted by womoグルメスタッフK at 2012年01月20日 19:40